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絵は私のコミュニケーションツールのひとつ

私には絵がコミュニケーションのための
何かになっているんだろうと思います。
だから自分の絵を見てもらったとき、
「私、あの絵が好きだわ」って言われると、
「あ、コミュニケーションとれた」という 歓びがある。

 
北村 さゆり 先生
Sayuri Kitamura Interview
 
 
聞き手 シルクランド画廊
顧 定珍、 久保田 和也

interview by Teichin ko
and Kazuya Kubota
         

はじめに、日本画を始めたきっかけを教えて下さい。

 日本画なんて知らなかったんですよ。
自分だけの表現がしたかっただけなんです。
どちらかというと立体的に捉える事が得意だったせいか、
高校の美術の先生に
「お前みたいなのは彫刻に向いているんだろうけど、
日本画にそういうのがいないから行ったら面白いかもしれないよな」って
軽く言われたことがきっかけですね。

それで高校2年のときに、東京国立近代美術館で 福田平八郎の
瓦だけを描いている《雨》を観てすごく感じるものがあったんです。


 
北村さゆり 於:アトリエ
 
水の作品 《映・紋》 130×320p について語る作家
2010年5月 アトリエにて
       


雨の降り始めの埃の匂いがするんですよ。
この絵いいなあと思ったら、岩絵の具って書いてある。
目から鱗が落ちましたね。 私が思っていた日本画と違うと初めて知って魅力的に感じました。

透視図法とは違う遠近法があるでしょ?! 『洛中洛外図』みたいな。私の絵に俯瞰図が多いのはそれが理由なんです。

 

先生の作品には影とゆらぎがあって、初夏を思わせるようなキラキラする感じの作品がありますね。

 影踏みが好きでした。
夕陽では長くなったり、影なのに人格があるように空想してました。

  夏の絵が多いですねって言われますが、陽だまりが好きで、季節感を特に意識してはいません。
生活の不満からの逃避が、私の作品の空気感の始まりです。
「目の前には、穏やかな時間があるではないか」と自分に言い聞かせるためにも。
それをある人に「ぼんやりした時間を描いてるね」と言われまして。
でも、ぼんやりした意識で描いている訳ではありませんよ(笑)。

  時々「水面の作品と金箔の作品は、別人みたい」って言われるけど、 自然を観察して描く事が好きな私には、
金泊の作品は岩絵の具で丁寧にスケッチしているわけです。

水面の作品の方が制作過程が多いですが、思考は同じ線上にあります。
影のゆらぎとか、水面のたわみとか・・・部分だけをクローズアップする仕事は、
こうした試行錯誤を経てデフォルメしたり引き算したりして表したい形を優先します。

 

水の表現で、偶然性を狙って描いていくことの面白さよりも、
ある時期から意識して形を作っていくことの方に興味が移っていくというようなことを以前仰っていますが、
今はどうでしょうか?

 今は、そこまで頑なにならなくてもいいかなと少し思いはじめていますね。
水って、それ自体が偶然性じゃないですか。
それを偶然性で描くのは当たり前のような気がするわけです。
だから、当たり前じゃないことを敢えてやっていかないと、
自分のものにならない気がしていたのですが、今は偶然性を大切に扱います。

 

日本画にこだわること、意味や構図、構成や間の取り方など、西洋絵画とは違うものに魅力を感じていますか?

 日本画としてより、自分の潜在的にある日本人特有の時間・空間の掴み方や表現の仕方に感心があります。
何で日本画を選んだのかってことになると、たまたま出会った画材を使っているうちに性分に合ったとしか言いようはないですが(笑)、
絵の具をのせる時に、支持体(画面)を立てかけるのではなく、床に平置きして絵の具を盛るようにのせます。
それも、土のような絵の具と水分を混ぜ合わせて。
乾いて画面に定着した時には、絵というよりは、物質感が強いんです。
絵画の世界から違う感覚を引き起こすためか、画面の構成や空間の妙が、面白いんです。
それを日本画と言おうが、別の呼び方があろうが、絵画には違いないと思っています。

 

たとえば身近にある何気ない物ひとつに対してでも、
ある人にとってはとてもかけがえのない世界観を持っていたりしますよね・・

 壮大な風景でなくとも、日常に思いがけぬ発見があるんですね。
日常の中の非日常と言われた事がありますが、観察している自分にはそれが日常的な視線。
言葉では表せない何かはざまみたいなもの「ぼんやりした時間」・・・・・・。
そのはざまが何かわかりませんけど。

 

でも、そのはざまみたいなものを観たときに、共感する人もいれば、拒絶する人もいる。
忘れていたものをふっと思い出す人もいれば・・・と、何らかを感じてもらえれば。

 それがコミュニケーションだと思う。
言葉でコミュニケーションすることも大切だけど、絵を通してコミュニケーションとれる相手は、無条件に信じられる気がします。
年齢や国が違ってもいいし、もしかしたら時代も超えるかもしれない。
私には絵がコミュニケーションのための何かになっているんだろうと思います。
だから自分の絵を見てもらったとき、「私、あの絵が好きだわ」って言われると「あ、コミュニケーションとれた」という歓びがある。

 

コミュニケーションですよね。先生がこの世にいなくなっても続いていくこと。

 作品は残るから、それは重要な事柄ですが、気持ちが通じ合えたんだっていう歓び
、そういう信じられるものが、今の自分にとっては大切です。

 

2010年6月 ギャラリー通信28 インタビューより

☆ ロング・インタビューはこちらをご覧下さい。


 

 
北村 さゆり 「映・紋」 130×320p
 



水面を描いているんですが、

木々が映ったり、向こう側の背景が映ったりして、

風が通ると、鏡面のようになっている水面に輪ができます。


その輪がリズミカルでとても面白いんです。

その表情を自分流に咀嚼して描いています。


水の表面なのか、水の中なのか、水の上にある見えない空間なのか、

そういうものがふわふわと身体の中に染み込んでくる気持ちを描けたらいいなと思って描いています。

 
     
       
北村 さゆり 「夏の終わりに-ほおずき」 F4  
 
ものを描くときは、なるべく現物が目の前にあって描きますが、

水面や影の絵は、目の前になくても描ける、不思議と。


観察し続けているからだと思うし、描きたくて描いているからだと思う。


「ぼんやりした時間」って抽象的じゃないですか、

だからその時間をもっと自由になって描きたい。

     
       

文芸誌の挿絵や、単行本の表紙絵の仕事を複数抱える北村先生。

タブローなどとの意識の切り替えはどうしているのでしょう?

 

北村: タブローは私でしかない。

つまり生きている私自身なんですね。


一方、挿絵の仕事では、制限がある分、

思い切ってやりたいことを打ち出せる快感があります 。

だから、挿絵だと壮大な絵とかも描けちゃうんですね。

 
自分のタブローのなかではなかなか表現しないものを表現できるのが面白いです。

役者さんになったような感じで。

 
「利休にたずねよ」 第20回「名物狩り」扉絵 全24話
 
『歴史街道』 に連載された 『利休にたずねよ』
第20回 「名物狩り」扉絵 全24話
 
       
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