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呉一騏 水墨画の新次元                                                   K美術館館長 越沼正



呉一騏(ご・いっき)氏の水墨画には、氏独自の気配が漲っている。

水墨による濃淡が創り出すその世界は、明光、薄明、漆黒が織り成す山水画の伝統を踏まえながら、それを超えた新しい次元を開いている。

明光はただ明光に留まらず、漆黒はただ漆黒に収まらず、幾重にも積層する薄明は、その山水世界の彼方を透視する深い奥行きを湛えている。

その独自の山水世界の中軸には当然であるが、山が、様々な山がある。

氏の描く山は山であり、山ではない。

日本人にとって、山とは神である。中国人の呉氏にとっては、山とは哲学的思索の軌跡である。

描かれた「山」は呉氏の思索の結晶であり、なおかつその結晶(山)から液晶を経て次なる結晶へと変容をつづけてゆくであろう

その時=飛躍への跳躍台である。

人とは考える生き物である。

呉氏は、哲学するひとである、自己の中の世界、世界の中の自己、絶え間無く変化し続ける自己と世界、世界と自己の関わりにおいて、

その時間軸、空間軸の一刻の一点景として在る自己と世界を、この世界の外から遠望し、認識するという哲学的思索の、

言葉を超えた超絶的表現手段として、呉氏は「水墨画」を描く。


呉氏の描く「山」は、世界内自己、自己内世界の認識の二重構造の接点として、先ず描かれている。

世界も自己も、時間の変遷にしたがって、その認識された像は刻々と変容してゆく。

呉氏は、その現実に描いてゆく現在の時間の中に、自らの哲学的思索によって産み出された虚の時空を幻視し、

一幅の紙上(布上)にその幻像を描き出す。

それは、いとつ間違えば観念の絵空事に陥る危険な方法である。

けれども、呉氏は現実を直視し、現実の感覚から思索を立ち上げる人である。

描きたい山水画が先ずあってそれを紙上に写すのではない。

描くことを促す思索の熟成が、手を、筆を衝き動かすのである。

筆先が産み出す一本の線、水のひろがり、筆の深まりが、彼に思索のさらなる成熟へと向かわせる。

言葉による哲学的思索、描かれてゆく水墨が現出する言葉を超えたさらなる未知の世界、それに感応し、さらに思索を深め、

水墨を描き出してゆく自己。

内発的他動的相互作用によって刻々と形成されてゆくその「水墨画」は、ある時ひとつの完結した世界像を成す。

すなわち哲学的思索の一到達点に達する。

そこで筆は止まる。

それは水墨による哲学的思索の軌跡の一結晶としての、また自己表現の創造的結晶としての姿を見せている。

その「水墨画」は、変貌してゆく世界と自己の現時点での認識の一到達点としてある故に、

さらなる哲学的思索=新たなる「水墨画」への出発点として、次なる時空へ開かれている。

(1998年7月28日)

 




『墨の領域〜呉 一騏』    『銀座美術』誌の評論文より(拔粹)                      美術評論家   ヨシダ・ヨシエ



呉一騏の水墨画、天地の接する山の神秘の気配を、それとコレスポンダンス(照応)する高度の象徴性のなかに精神を漂わせ、

偶然性に深くかかわりながら、これも画家の座右銘である道家老子のいう惟恍惟惚、恍兮惚兮、窈兮冥兮の境地に到ろうとする

プロセスである。

その見事な近作である作例『天光系列』である。

山並みを通して、空一面にひろがる光のシリーズで、『地の柱』という作品とならんで、わたしを感動させた。なにけなく、

わたしはフランス・サンボリスムの用語など使って、コレスポンダンスなどと記してしまったが、ここにとらえられた気の世界は、

中国からアジアの多くの国々に通底するコズミックな循環系への感応だろう。

 

 

 

『日本水墨画大賞〜呉 一騏』    『芸術公論』誌の評論文より(拔粹)                   0美術館館長  長谷川 栄



 深い精神性を感じさせる"想念"が自律的に描かせた心象絵画である。

こうしたエスプリを視覚化するうえで"墨絵"はまさに、最適な画材であるように思う。

それは、水と墨という、モノクロームの粒子の運動がつくりだす即興的な想念的世界が、説明の要らない純粋なヴイジョンを現出させるからである。

非対象的な心象画としてともおるが、やはりこの東洋画の名手は、あえて「崖谷秋冥」と名づけているが、たとえ画題がなく、

抽象画であったとしても満足できる美しさをもっている。

それ程の絶対的な完成度をもつ作品である。


 画面全体を支配する墨の部分と、白い余白の部分のスペースの配分がみごとである。

そして運動を形成し、余韻を暗示する、掃いた墨の流れの行方が、深い深いメンタルな空間を形成している。

 

 



無限の可能性・若い才能の開花    作品集の前文より(評論文の抜粹)          東京都庭園美術館 名誉館長 鈴木 進 


空間と光への鋭敏な感覚
 


過日、呉 一騏さんの数十点に及ぶ作品を拝見した際にも美術界の国際化と東洋的感性の限り無い可能性を考えさせられたものである。

 呉 一騏さんは、87年に来日し日本の美術をはじめ芸術全般を研鑚しつつ独自の創造的な水墨画の世界を開拓している。

その作品を一見して、空間と光の表現はこの画家の鋭敏な感覚が並々ならぬものであることがわかる。

中国的風景にしろ、具象的な表現より象徴性の高い画面に好感を覚えた。例えば、「靄光峯立」。

中国で研鑚を重ねてきたであろう水墨の『線』を惜しげもなく放弃して、墨の濃淡と滲潤による見事な暈しによって画家の心象の風景を

抽象に近いほど極限的に抽出している。心象風景を極限まで抽出した分、余白には画家の精神性が凝縮されていた。

 東洋画における余白は単なる白ではなく、感情表現のひとつであり、奥行きもあれば拡がりもある。

呉一騏さんは中国と日本の古典的なものを昇華して品位ある格調をすでに獲得しているといえよう。

また「黄山雲峰」など何点かの作品で、画面の四分の一ほどを墨の黒でうめて『黒い余白』とでも呼ぶ効果を試みている。

白の空間と黒の空間は表裏一体のものがあり、画面の切断が新たな空間の拡がりを意図している。

これも新しい空間の解訳であり、これをどのように発展させていくか、画家にとって苦難の道であろうが、その格闘的な姿勢は大きな成果を

期待させるものである。


水墨現代化の旗手

 「翠崖畳嶂」「白浪赤影」など水墨に色彩した作品にも注目するものがあった。

比較的濃い墨に抑制の利いた彩色の対比は見事なまでに美しい。この画家の才能の発露のひとつであり、高く評価するものである。


 この画家のもうひとつの特質は光に対する鋭い感覚である。

これはこの画家のいずれの作品にも感じられるもので、さらに精進を重ねることによって精神的な光の表現が『慈光』と呼ばれる画境に到達しえよう。

自然観の深まりは画家のもつ哲学の反映であり、人生体験の拡がりは人格を大きくする。

それが作品を深め、高めることはいうまでもない。 なお水墨画の現代化には日本においても、明治以後多くの大家たちが取り組んできた。

横山大観、川合玉堂、村上華岳など、それぞれの画家がそれぞれの解答を作品として残している。

現代においても何人かの画家が取り組んでいるが、呉 一騏さんも水墨の現代化を担う旗手の一人といえよう。



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