アーティストインタビュー

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ジャーシャン・ベイ 先生

ジャーシャン・ベイ 先生

形を描いて心を映す ~ ジャーシャン・べイの世界 ~

レストランに憩う女たち、疾走する馬、そして花。
ジャーシャン・ベイは無数の色をひしめかせながら、余白をゆったりと残した明るい画面を作る。
色の印象や解釈を見る人の自由にまかせて、気取ったそぶりもない。

「花であれば、私の思いを投影して花以上のものに昇華させたいし、また見る人にさまざまな解釈をしてほしい。
そういう意味では、モチーフは自分と見る人とをつなぐ記号であって、画面にあるのは抽象表現だと思っています。
色も、それから筆のタッチもその時々の感情によって即興で生まれてくるんです」。

この画境にたどりついたのは、母国中国から遠く離れたオーストラリアでのことだった。

■中国から、オーストラリアへ

全国美術展での数々の受賞歴を持ち、有名大学での昇進もトントン拍子、さて画家としてこれ以上何を望むか
――38歳のジャーシャン・ベイは、その答えを異国に求めた。

「中国から海外に出た人は大勢いますが、きっと皆が同じことを感じていたと思います。
つまり、自分の国しか知らず、視野が狭くなってしまうことを恐れていたんです」。

オーストラリアに移り住んだ14年前を、本人は柔らかなまなざしで振り返る。
ベイは、1953年上海に生まれた。
蘇州でも名高い文士一族で、芸術に造詣の深い両親は息子に早くから絵筆を持たせた。
「書」や「篆刻」、心象を映す「写意画」などに触れた才能はまもなく開花。
色彩への興味が深まってからは油彩に親しんだ。
社会は文化大革命に突入し「描けるだけでも幸せだった」時代、のちに副学部長にまで登りつめることになる上海師範大学美術学部に入学する。
20歳だった。
卒業後は母校で教鞭をとる傍ら、画家としても活躍していたが、全国レベルの入賞を重ねながらも
「当時の中国には『油彩=写実表現か印象派』という認識しかなかった」ことが、
「油彩画の生まれた西洋の土壌を知りたい」というベイの好奇心をふくらませる。
まもなく「肩書を持つことは自分の最終目的ではない」との一念で、画家は進路を大きく変え、オーストラリアに向けて飛び立った。

■ゼロからのスタート

言葉もままならない異国で、金銭的にも精神的にも苦しい生活が1年ほど過ぎると、ベイのもとに突如出会いが到来する。
国立美術館の所蔵作品を模写してほしいという実業家が現れたのだ。
ありがたかったのは経済的な支援だけではない。
モネ、ドガなどの印象派、19世紀イギリス絵画といった名画40点を実物大に模写する経験は、それまで積んできたどの経験よりもベイの画家修行になった。

「模写を続けた2年間で、どの名画にも、西洋で培われた魂から生まれた、西洋人の心にしみこむエッセンスがある、
ということが痛切にわかったのです。
中国で生まれ育った私のなかには、祖父や父から教わった墨絵の精神
――すなわち、目の前にある題材とは似て非なるものを描け、筆は一息に動かせ、といった習慣が根強くあります。
ピカソやゴーギャンにはならなくてもいい、自分の魂から生まれてくる表現で進めばいいんだ、と気づいて一気に自由になれました」。

初めて「自分の絵」として自信を持てたターンポイントだった。
それに前後して、ベイ自身の作品に対する豪美術界からの評価も急上昇する。
画廊との取引が始まり、オーストラリア全国規模の絵画展での最優秀賞をはじめ、多くの賞を受けた。
西洋の手法に、東洋の感覚を融合させた作品の誕生だった。

■「傍観者」の幸せ

馬を愛する父親が授けた中国名、家驤(ジャーシャン)にこめられた思い(「驤」は馬が駆けるという意味)も奏功してか、
ベイは身近にいた馬たちを5歳から描き始め、馬の骨格や筋肉の名を暗誦するほどの馬好きに育った。
メルボルン有数の競馬場近くに住む現在まで、競走馬は永遠のメインテーマだ。
疾走するときにみなぎるエネルギー、張りつめた筋肉、静かな目、その美しさすべてに強さを感じ、ベイの絵心は動く。
母国とは違う、オーストラリア独特の情景のなかにも描く喜びがある。
自宅の裏庭に咲き誇る季節の花や、折りおりに採れる果物。レストランやオープンテラスのカフェで歓談する人々やエレガントに舞う踊り子。
洗練度を増した筆致は、明るい場面をさらにかろやかに、優雅なひとときをますます美しく縁取る。
乗馬も競馬もせず、人の輪の中心で大騒ぎをするわけでもない。
競争馬の一瞬や談笑する人々の横顔を、傍観者でいられる場所からその雰囲気をにこにこと眺めながら構想を練る。

「こうしたモチーフの美しさは、世の東西共通のものです。
形あるものから抽象的な美しさを引き出して描きたいし、また観る方に共感をおぼえていただける作品を描きたい。
表現が、自分の心に根づいているものから生まれるものであるとすれば、私にとって西洋の技法であるかどうかは手段の違いでしかありません。
こうして、見てくださる方や理解してくれる画廊とのご縁があって、絵を描いて暮らしていけることが本当に何よりの幸せなんです」。

最近では東洋の女性を描いてみようかと思案中だ。
墨絵発祥の地で生まれた一粒の才能は、とおく西洋の地で大輪の花を咲かせ、母国から吹くさわやかな風に今日もそよいでいる。

ギャラリー通信#13(2007年4月)記事より